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恋と愛のあいだでのいくらかの旅路

黒岩 漠(一橋大学大学院博士課程、社会史・思想史)

  たとえば英語のLoveとは異なり、僕らの言葉では恋と愛という語が区別されていて、そこに微妙な使い分けがなされている。恋という語には、何か〈ときめき〉のような情念が込められていて、どこか幻のようなもの、理想の投影や熱っぽい幻想化といった契機、いずれ消える――冷める――ことが予感されるようなものといったニュアンスが含まれる。それに対して、愛は、より強度のあるもの、絶対的なものといったニュアンスが相対的に強調され、そのことと関係して親子関係や宗教上の用語としても使用されている。恋は青春の神々が動く圏域に属しており、愛は人類史の全体に属している。

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 恋とは対象の状態(status)に対する好意であり、愛とは存在(being)そのものに対する好意である。たとえば相手について言えること――「体型が良い」とか「金持ちである」といったこと、あるいは「優しい」とか「私に好意を抱いてくれている」といったことのこれらすべては、対象の社会的状態を示している。もしこれらが相手に好意を抱く理由であるとすれば、そこで対象はそのような状態に対する好感情に包まれており、そのようにして好意を抱くものによって投影された幻想に覆われているのである。恋の矛先は、究極のところ対象そのものではなく、この状態の方なのだ。それに対して愛はというと、対象そのもの、その存在そのものの方を向いている。というのも、愛とは、相手がどのような状態にあるのであれ、存在してくれているということ、そこにいてくれているということそのものへの好意であるのだから。愛は、相手にいかなる状態であることも要求しない。愛とは、愛されるものにとっては絶対的な自己への肯定、根底的な存在承認となるのだ。そこではすべての動的な活動は停止し、あらゆる欲望の志向も消え去って、ただただ静寂に存在が佇むこととなる。愛のもとで、存在は、安心することができる。

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 子を愛する母は、たとえ子が不幸な事故で障害を負おうとも、道端で十人を殺して死刑を宣告されようとも、我が子を愛し続けるだろう。逆に言うと、テストで良い点数を取らないからとか、死刑宣告を受けるほどの罪を犯したからといって、子を見放してしまう親であった場合、残念なことにもそこに愛はないのである。

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 恋は、あらゆる欲望が時折描く、いささか奇妙にも見える軌道をはっきりと示している。恋する気持ちが強ければ強いほど、覆われてあるはずの対象は意味論的に空虚化していくのである。しばしば、新作を出さない人気作者がその不在において神格化されていくのと同じように、空虚さが幻想を、形容を、より一層誘引していくことがあるのだ。それは、たんに恋している相手を賛美する言葉が増えていくということではなく、むしろ恋の対象とは直接的に関係のないあらゆる場面を集めてくる。たまたま耳にした歌の歌詞やちょっとした映画の心理描写、ふとした会話の調子など、日常のさまざまな瞬間が、まるで深い窪地に水が流れ込むようにして心に抱かれた相手のイメージへと流れ込んでいくのだ。世界のあらゆるものが相手を想起することへと結びつく合図を送ってくる。「恋の奴隷」という表現が使われることがあるが、奴隷のイメージが比喩として持ち出されるのは、このような抗いようもない連想の流れに身を置いている感覚に由来している。かつて、二十世紀で最も貴重な物書きの一人であったある男は、「恋する者にとって、恋しい人は、いつも孤独であるように見える」と書いたのであるが、こういった見え方がするのは、この抗いがたい流れのなかで、恋しい相手自体は不在の記号を纏うのに対して、恋する当人は自らにその空虚を埋めるという使命を与えるからである。

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 ところが、いかなる激情をともなったとしても、それが愛ではなく恋であるのならば、それはいずれ冷めうるものである。というのも、あらゆる幻想は、繰り返される現実からの攻撃にいつまでも耐えることはできないからだ。体型が崩れてしまえば、あり余る金が破産してふっ飛んでしまえば、優しさが感じられなくなれば、自分に対しての好意を感じられなくなれば、そしてそれとともに相手を信じられなくなれば、等々――その他あらゆる理由で、恋する気持ちは思いがけず急激に、あるいは徐々に、消えていってしまうのである。恋には、ある種の必滅性の呪いがかかっていて、それは「生あるものはすべからくいずれ死ぬ」というこの世界の規則の、一つの変奏のようにも思われる。青春には必ずその終わりが待っていなければならず、最後は、夏の終わりに転がる蟬たちの死骸のように、この世界の移ろいを示す証拠物件とならなければならない。

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 大衆に対して、幻想を纏って立つことを自らの職分とする消費社会のスターたちは、よほどの馬鹿でもなければ、自らに向けられている好意の脆弱さに不安になるので、その分、自らに集まる好意を終わりなき愛であって欲しいと叶わぬ願いを抱くものである。その願いが打ち破られたときに、スターたちは〈人並み〉にもどる。

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 歌にもある“All You Need Is Love”という言葉において、“Love”は、恋ではなく愛でなければならない。実際にも精神にとって、必要なものはただ愛だけ、というよりも、それさえあればその他は不要になる、そのようなものが愛なのである。愛とは、絶対的な、存在そのものの肯定である。愛することによって世界は常に生きるに値する要素を持つことになり、また愛されることによって世界から孤立するという不安はなくなる。だからこそ愛は、求められてやむことがないのだ。もっとも、自分に向けられた愛は、人生のなかではあまりに希少なものなので、ともすると、たった一つの愛だけでも十分だと思われることもあるだろう。「君さえいてくれれば・・・」などというしばしば耳にする文句は、その辺の事情を伝えている。

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 しかしまた、この一人の生においてはあまりに希少であるということが、愛の限界へとつながる。というのも、愛されるということほどの安心はないため、人はそれを求めてやまないのであるが、その際に行われる、愛を手に入れるためのあらゆる努力というものが、そもそも愛における存在の根底的肯定に背くからである。愛は、代償なしに手に入れられなければならない。ということは、つまり、手に入れようとして手に入るものではないということなのだ。このことから、求められたものとしての愛には、それに応答して、常に恋の諸要素が引き込まれていくことになる。愛してくれる相手がいないものや、愛されたい相手から愛を得ることのできなかったものが、ときおり抱く、「どうして自分は自分を慰めてくれる相手にめぐりあわないのだろう」「誰でもいいから優しい言葉をかけて」などといった思いには、ある特定の人物からの愛が獲得できないということを、他のものからの愛によって代補しようとする傾向が含まれているわけであるが、それは同一性の仮象なのであって、とするとそれは、すでに恋である。こうして愛は――誰もが求める愛は、まさに求められるがゆえに容易に愛の仮象へと転化する。愛する妻のために死者の国までおもむいて彼女を取りもどそうとした男は、死者の国から出る、その最後の最後で、妻との永遠の別れを受け入れなければならなくなったのであるが、そのとき彼は、すでに愛のための代償を払ってしまっていたのである。

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 恋であったものが愛へと変質することはある――長い時間をともにすること、そのなかで繰り返し自分にかぶせられた覆いを破くこと、そうして自らの存在それ自体を相手に馴染ませること、これである。あらゆる不安を経て、老齢に達したころには、そこに愛があることに気づくということがあるわけだ。しかし、それは、時間経過という強制力のある魔法を使って、自らの存在を相手に馴致させ、そうして根底的な肯定を引き出したのであるから、結局、そのときにはもう、愛によって自らの存在に安心を与える必要すらなくなっているのである。愛は、そこではすでに求められるべきものではなくなっている。

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 恋が冷めるということは、恋される側にとっては自らを厳しい評価判断の視線から守ってくれていた覆い――もっともこの覆いを、多くの場合、当人は身なりを良くするとか、紳士的に振る舞うといった不断の努力によって自ら勝ち得たものだと考えるのだが――が消えるということを意味するが、そこには愛では満たすことのできない、特有の欲望を満たすチャンスが潜んでいる。すなわち、「本当の自分を理解して欲しい」という願望が、そこで成就するかもしれないのである。愛という絶対的肯定性においては、〈本当の自分〉などというものへの志向はあらかじめ除外され、そのようにして存在そのものが承認される。そのようなカテゴリーは愛するに値しないというわけだ。おまけに、〈本当の自分〉などというものは恋の対象にすらならないかもしれない。ところが、このような無茶な欲望こそが、「世界のすべてを救済しなければならない」という、とびっきりの使命感を抱えた人物を生みだす土壌にもなるのである。このような使命を真剣なものとして引きうける人物は、真の自己への理解を求める著しい欲望の、その満たされなさの裏返しとして、世界に本来そうあるべきものであるように迫るのだ。言い換えると、救世主や革命家とは、愛を受けとることのできなかったものたちなのである。